上の写真は明治時代の新大橋。橋の下を一銭蒸気が航行しています。

一銭蒸気とは?

明治、大正期の庶民の足として隅田川だけでなく小名木川でも大活躍していました。
始まりについては、諸説あるのですが、明治18年に吾妻橋ー永代橋だと言われています。
1区間が一銭。そこで「一銭蒸気」と呼ばれるようになったんです。時代の流れに合わせ値上げをしていくのですが、呼び名は「一銭蒸気」のままでした。

当時はディーゼルエンジンがなかったので、安価な重油を燃料とする焼玉エンジンが主流でした。このエンジン音が独特のポンポンという音。これが「ポンポン船」の由来です。懐かしい感じがします。ポンポン船の音

宮崎アニメ「風立ちぬ」

主人公が江東丸という蒸気船に乗っているシーンがあります。夕景で隅田川をゆっくりと進む姿はとても美しい光景です。
(2分21秒あたりから)
かつて深川には多くの定期航路の汽船が走っていたのがよくわかります。

深川の定期航路1 隅田川

「近代東京の渡船と一銭蒸気」より

画像は昭和7年、隅田川を航行していた「隅田川機船株式会社」によるものです。地図にある新大橋東側に行ってみました。

ここは、船を係留する木や鉄骨がある所です。もしかしたら何か痕跡のような物が残っていればと思っていたのですが、現在の防潮堤は高度経済以降に作られたもの。残っているわけがありません。ふと帰ろうと考えた時、この場所は古い堤防も残っている事を思い出しました。


旧防潮堤をよく見ると数メートル置きに入り口の跡が連続して3箇所ありました。こんなに連続してあるのは、船を乗ったり降りたりするからではないでしょうか。
大正9年の運行状況には、乗客数は約247万人。実に多くの人が利用していたのが分かります。この場所もかつては人の往来が盛んだったんですね。

深川の定期航路2 小名木川

「近代東京の渡船と一銭蒸気」より

こちらは東京汽船株式会社のものです。高橋から浦安、行徳まで航行されていました。
東京汽船の本社は高橋にあり、早朝5時から19時40分まで営業してようです。
泉鏡花の「深川浅景」にたいそう混み合った様子が書かれています。

あの高橋を出でる汽船は大變な混雜ですとさ。ーーこの四五年浦安の釣がさかつて、沙魚(はぜ)がわいた、鰈(まこ)が入ひつたと、乘出だすのが、押合、へし合。朝の一番なんぞは、汽船の屋根まで、眞黒に人で埋まつて、川筋を次第に下ると、下の大宮橋、新高橋には、欄干外から、足を宙に、水の上へぶら下つて待つてゐて、それ、尋常(じんじょう)ぢや乘切れないもんですから、そのまんま ‥‥‥ そツとでせうと思ひますがね、 ーー それとも下敷は漬れても構はない、どかりとだか何(ど)うですか、汽船の屋根へ、頭をまたいで、肩を踏んで落ちて來ますツて。 ‥‥‥ こ奴(いつ)が踏みはづして川へはまると、 (浦安へ行かう、浦安へ行かう) と鳴きます。

屋根の上まで人で埋まっていたとあります。なんだか、その光景が目に浮かびます。
小名木川は、他にも利根川まで行く快速蒸気船「利根川丸」、現在の常盤二丁目にあった芝翫河岸。外輪船が竣工した造船所などがあったようです。このあたりは、また調べてから。

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